obacanの日記

コーヒー、文具、木村カエラ。

もえるためのことがら

質の高い作品を楽しむには、
受け手たるこちらも質の高い鑑賞者である必要がある、
てなことを、最近ことあるごとに考えます。

森薫の『乙嫁』を兄に渡されて、
明らかに質の高いマンガだった。
同作者の『エマ』同様、
世界観へのたっぷりとした理解に基づいて描いてあり、
キャラクターへの愛着も十分に感じられるし、
素晴らしい作品である。ことはわかる。

そゆう理性的な作品への評価はできるんだけど、
じゃあ読んでいてその質の高さへの恍惚のようなものが
俺にあったかというと、なかった。
十年くらい前の一人暮らしの頃、マンガをジャケ買いしては
読み漁っていたころの悦びというものが、このところ、ない。


……という内容を先日Tumblrにポストして、昨日、

昭和元禄落語心中 雲田はるこ 久々に漫画をすごく面白く感じてる。やっぱ受け手の調子ってもんがあるな。

と、Tweet


萌えるという行為だか様相だかを象徴するのは、ぼくは、
中川翔子が好きなモノに対して見せる姿だと思います。
燃えるというのは甲子園の高校球児たちの感じ。

外的な対象が燃料のように存在していて、
精神的、肉体的なエネルギーが酸素のように供給されていて、
そこになにかきっかけ、チャンスとか呼ばれる着火装置が働いて、
もえはじめる。みたいな感じでしょうか。


自分はエネルギー不足を感じていて、
このたとえ話になぞらえるなら、酸素が足りていない。
くすぶっている。まさにこの言葉の感じですね。
きっかけやチャンスは環境にもよるんでしょうか。


どうしてこんな話を始めたかと言うと、
それは日記やメモを書くことに関して熱中していたころのことを、
さっきむかしのはてなダイアリーを見返して、
純粋にうらやましく思ったからです。
メモというのは思いつきだったり感じたことだったり、
なんでも含むんですけど、
それをいま、してない、なぜか。環境、というか道具が変わったからです。

当時はCASIO製の「ケータイ」を使っていて、
こいつの「簡単メモ帳」という機能が最高だった。
ポケットに手を突っ込んで取り出しながら二つ折りを開いて、
開きながらクリアキーとセンターキーを押したらもう入力モード。
前のメモとの区切りは簡易に「-----」と改行で済まされてる。
これがもう体に染みついていて、
いつでもどこでも見なくてもメモできたんです。
はてな記法のタグを辞書登録したりもして、
溜めたメモを定期的にはてなダイアリーに移したりもしていました。

それが、機種変更で、なくなった。

がーん。

そのために、大げさに言えば、自分の情報行動が完全に変わってしまいました。
忘れっぽいのにメモしなくなってしまった。

それで、「きっかけやチャンス」を「着火装置」と書きましたが、
「環境にもよる」というか、環境も装置の一部かなと思うのです。


さて。

ものを考えなくなったなぁ、
そしてそれを人に話しておもしろがられることも減ってしまった。
だがしかしこれじゃいかん!とは思うわけです。


じゃあどーすっかってーと(以下は上より駄文です)
(ですがきっと自分には大事なんだ……ほんとかよ)

「酸素の不足」に関しては
・まず呼吸(アウトプットしながらいろいろ取り入れる)
・ひょっとこ(口を尖らせる=不満を見つけて改善する、いろいろ吹く)
(このへん昔に比べてほんとやってないなぁといま思うのです)

「きっかけ、チャンス」に関しては
・変えられる環境は改善する
・時期を待つ

なんだそれ


や、しかしなんといいますか、
生活に根付いた道具、使い込んで身体の一部となっている道具が
無くなってしまうというのは、本当に怖いことです。
いちど極端に使いやすく作ってしまったのなら、
責任を持って供給を続ける。
自分も道具づくりを志すモノとして心に刻んでおきたいです。。